第67話    「釣の遠征」   平成17年07月17日  

同じ庄内の釣でも酒田と鶴岡の釣り人とは大きな違いがある。昔から酒田の釣り人の多くは会社が終わってからでも、気軽に釣に行けるほど海が近かったのに比べ鶴岡の釣り人は海まで145キロの道のりが有った為に気軽に釣には行けなかった。その為に釣りと云うと最低半日から一日がかりの釣にならざるを得ない。だから自営業の人は別にして休日でないと釣には行けなかった。徒歩の釣が交通手段の発達で自転車、バス、汽車の移動の時代にかわっても半日から1日かがりの釣で当たり前のように行われていたから、庄内の上磯、下磯はもちろん新潟県の北部、秋田県の南部にまで足繁く通った。

何処〃で黒鯛が釣れたと聞けば、何処まででも出掛ける気風が根底にあったから、マイカーの時代ともなれば当たり前のように遠くにまで遠征するようになっていた。オキアミなるものが入って来た昭和50年代を境として、酒田の釣り人も鶴岡の釣り人を真似て盛んに県外へ遠征するようになった。その当時は黒鯛釣りの盛んな庄内を別とすれば、秋田県の男鹿や青森県境では、ブッコミで根魚や真鯛を狙う事はあっても、黒鯛等と云う魚を狙う習慣がなかったからオキアミを撒餌に使って竿を出せばいくらでも釣れたと云う嘘みたいな本当の話である。極端な話が持参したクーラーに入りきらず、車に積んであった30キロ入りのお米の袋にも入り切れぬほどギュウギュウ詰めにして詰め込んで持ってきて漁協に卸していた等と云う逸話が残っている程である。

とかくそんな事が長くは続く訳がない。釣れなくなると今度は南下して厳冬の佐渡ヶ島へと繰り出して釣を始めた。一度の釣行で4050枚は当たり前で20枚なんかは釣ったうちに入らないと云う始末であつた。釣れば釣るほどに数が激減するというのは当たり前の話である。まして同じ魚でも寒冷地に棲む魚は成体になるまで、暖海に住む魚と比べ時間がかかる。自然の営みと相反することを人間がやっていたのである。釣っても良いから喰う分だけ持参すれば良いものをと思うが、釣り人の身勝手は自慢の種にすべて持ち帰っていた。

当時のオキアミと長竿を使っての庄内中通し釣法は向かうところ敵無しの勢いがあった。しかし、一旦魚が釣れなくなると今度はウキフカセ釣法に取って代わられる運命にあった。岸に寄って来ない魚を沖で釣るようになって来たからである。近代釣法は確かに釣れるが、同時に数少ない魚を釣ってしまう釣り方でもあるから魚をすべて釣ってしまう危険性をもはらんでいる。かつて庄内の釣り人が行った乱獲を更に新しい釣法を駆使して乱獲を行っていると云う結果になっている。昔は庄内の磯には色々な海草が見られた。最近の海にはそれが見られない。昔の海の豊富に生えていた海草は魚のゆりかごとなっており、大きな魚からの逃げ場となっていたものである。

撒き餌が原因で磯焼けしたものかは分からないが、そのひとつの原因にはなっていると考えられる。自然の営みを破壊する行為は最小限に留めたいものである。